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中道
釈尊が最初に説法されたときの第一声は、 「比丘たちよ。この世に近づいてはならぬ
二つの極端がある。如来は、この二つの極端を捨てて、中道を悟ったのである。」
という言葉だったことは先にも書いた。
続けて釈尊は、次のように説いた。
「それならば、何をもって中道とするのか。それは、すなわち八つの正しい道である。
正見・正思・正語・正行・正命・正精進・正念・正定である。これが如来の悟った中道
であって、すべての衆生に、正しい智慧を起こさせ、寂静の境地に至らしめ、涅槃へ
導くものである」
きわめて端的に表現されているが、飛躍している感じも受ける。この八つの道「八正道」
については、また別ページで詳解したい。
八正道の前に、中道そのものをさらに深く分析してみたい。
釈尊の第一声をそのまま受けとると、「両極端を離れたほどよい道」とか、「両極端の
間のちょうど真ん中」とも解釈してしまいそうだが、それは違うようである。
苦と楽の極端があるが、どちらも認めつつどちらにも偏らない。また、差別と平等が
あるが、同様にどちらも認めつつどちらにも偏らない真実の道理を中道という、と古来から
解釈されている。
つまり、大事なのは真理に合った調和であって、○○主義といろいろいわれるが、
その「なんとか主義」といった時点で、それは間違いなのだぞと示唆しているのが
中道の本意であるとも考えられる。
以上の説明のみだと、儒教でいうところの中庸とほとんど同じである。しかし、若干
ニュアンスが異なる。
中庸は、両極端に偏らず、むしろ両極端を超越した概念であり、いわば、思想的・
道徳的な印象が濃いが、中道は、両極端を認めつつ、極端と極端は、じつはイコール
であるという見方にまで積極的に発展させることができ、より実践的であるといえる。
つまり、般若心経の中に出てくる色即是空、空即是色という概念である。
一例をあげると、カビや細菌は、食物を腐らせたり、病気を引き起こしたりする有害な
生物であるが、一方では、生命が終えた動植物を土に帰して、われわれの生活環境を
美しくし、あるいは、それらを肥料に変えて新しい生命を育んでくれるありがたいもので
あると見ることができる。
また、人間には、いわゆる煩悩という我欲の心があって、一種のカビや細菌のような
ものであるが、その煩悩があるからこそ、いい意味での競争心や向上心が芽生え、
今日まで高度な文化を発展させてきたのであると見ることができる。
これは中道的なものの見方のほんの一例である。
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