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縁起観

 縁起観(えんぎかん)とは、中道・三法印を、より具体的・発展的に解釈をすすめた
 概念であり、仏教のあらゆる法門は、この縁起観が基になっているといわれている。

 よく、縁起がいいとか悪いとかいわれることがあるが、それはまさしく、この縁起観から
 きている。

 縁起とは、一口にいえば縁(よ)りて起(お)こるということであり、すなわち、あらゆる
 現象には、原因とそれに触れる条件があり、その結果としての現象が発生し、それに
 伴ってあとにいろいろな影響を残す、ということである。

 まとめると、次のようになる。


 因(原因) + 縁(条件) = 果(結果) → 報(影響)

 |           |   |           |
 +−−−− 縁 −−−−+   +−−−− 起 −−−−+


 これは縁起を詳しく分析したものであり、因縁果報(いんねんかほう)という。「果報は
 寝て待て」ということわざがあるが、それなどは、この因縁果報が元になっていると
 考えられる。

 このように、縁(よ)りて、起(お)こる、観(み)かたという意味で縁起観というわけである。

 例えば、ここに花の種があるとする。当然ながら、種は、机の引き出しの奧に大事に
 しまっておいても発芽しない。土に埋め、適度な水をあたえ、十分な暖かさがあってこそ
 初めて発芽し、生長し、花を咲かせるのである。そして、花を咲かせることにより、
 それを見た人が「きれいだな」と思ったりするのである。

 これを縁起観にあてはめると、「因」にあたるのは花の種であり、「縁」にあたるのは土や
 適度な水分や温度である。そして発芽・開花という現象が「果」であり、その花を見た人が
 きれいだなと思ったりすることが「報」である。

 この因縁果報が複雑に絡み合ってあらゆる現象が起きているのであるとするのが、縁起観
 すなわち仏教であり、これは暗に、いわゆる天地創造の神の存在を否定する思想だと古来
 解釈され、西洋などの一神教の信者から敬遠され、さげすまれてきたようだ。

 しかし、この中道・三法印を素とする因縁果報=縁起観という真理・法則こそが何ぴとにも
 あてはまるものであることはおそらく否定できないものであるから、この真理・法則こそ、
 いわゆる神と等価であると考えることはできないだろうか。

 そして、この真理・法則を悟り、完全に自分のものにできた人のことを仏と呼び、これこそが
 仏教の目的であるから、努力しだいでは誰でも仏つまり神と等価になれるのである。こんな
 ありがたい、勇気のもてることはないのではなかろうか。

 少々話がそれてしまったが、要するに、この縁起観に基づき、結果現象を違ったものにしたい
 ならば、因もしくは縁を変えればよい、ということになる。

 さきほどの花の種の例でいえば、因である種そのものは変えられずとも、縁である土に養分
 をたっぷりふくませ、水分もこまめに与え、温度管理もキチンと行なうならば、より大きく美しい
 花を咲かせることができるだろう。

 その花を見た人の感動も大きくなり、「きれいだな」という印象だけにとどまらず、「家の庭にも
 この花を植えたいものだ」と思い、あちこちにその花が見られるようになるかもしれない。果報が
 大きく変化するわけである。

 ほんの一例を挙げたが、縁起観は、あらゆる場面に成り立っており、うまく駆使できるように
 なれば、あらゆる結果現象をよりよいものに変えることが可能であり、それこそが、縁起観の
 神髄である。


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