HOMEへ戻る

六波羅蜜

 六波羅蜜(ろくはらみつ)の、波羅蜜とは、サンスクリット語のパーラミターのことで、
 「究竟(くきょう)する」「彼岸に至る」「渡る」ということである。
 「究竟」というのは、真理を究め尽くし、仏道修行を完成した境地のことをいう。

 四諦のところでも書いたように、八正道は主に個人の救われ(悟り)を目的とした
 修行であるのに対し、六波羅蜜は他の人をも救う(悟らせる)修行である。

 その修行を六つに分けて説いているため六波羅蜜といい、それは次のようなもの
 である。

 布施(ふせ)

 布施とは、一般的には第一に「他人に物を施すこと」、第二に「僧に財物を施すこと」
 という意味であるが、仏教的には次の3種類がある。

 財施・・・財の布施。他人にお金や物を施すこと。募金活動など。
 身施・・・身の布施。他人に身体を使った労力を施すこと。清掃奉仕など。
 法施・・・教えの布施。他人に仏の教えを施すこと。説法すること。

 なお、これらの施しを行なうときにはある動機が必要不可欠であり、それは、
 一切の見返りを求めず(そういう心を持たず)、他人の幸せを心から祈るという
 ことである。つまり、ギブアンドテイクでは決してないということである。

 見返りを求めないということは、「自分はこれだけの布施をしたのだ」と偉ぶる
 こともなく、逆に 「自分はこれだけしかできなかった」と卑下することもないという
 ことである。

 自分でできるだけの布施を行ない、布施ができること自体が「有り難い」と思える
 ことによって、自分自身の仏性が磨かれるのだと説かれる。

 そして、この3つの布施の中で最も尊いとされるのが法施である。もちろん、
 財施も身施もいわゆる人助けとしては尊い行ないであるし、奨励されるべきこと
 には違いないのだが、ややもすると、募金も奉仕も、それを受ける人にとっては、
 一時しのぎに終わってしまう可能性もありうる。

 そこで法施が重要になるのである。

 開発途上国などに対し、医療費や食料を援助するのは、人間として大事な
 行ないであるが、それに加えて、田畑の開墾の仕方や農作物の育て方などを
 伝授することができれば、当地の人びともいつか自立できる日がくるというもの
 である。

 すなわち、人の幸せを祈願して行なうということが成り立って初めて布施といえる
 のである。

 持戒(じかい)

 持戒とは、身を慎むということである。特に、布施を行なうことによって、ややもすると
 驕り高ぶってしまいそうになる気持ちを慎み、布施させていただけたそのこと自体に
 感謝できる心になることが大事である、ということを説かれたのが持戒であるとも
 解釈できる。

 仏の教え(戒め)をよく守り、人間らしい正しい生活をすることを説かれたのが持戒
 である。

 忍辱(にんにく)

 忍辱とは、他に対して寛容であり、どんな困難をも耐え忍ぶということである。
 持戒によって、歯を食いしばって教えを守るというたんなる忍耐ということではなく、
 そこに寛容さを兼ね備えることが忍辱の教えるところである。

 精進(しょうじん)

 精進とは、たゆまず純粋に努力することをいう。一時的な持戒、ある一時のみの
 忍辱ではなく、一心不乱に継続して努力することこそが精進の本来の意味である。

 禅定(ぜんじょう)

 禅定とは、どんなことが起こっても迷ったり、動揺したりせず、静かな精神を保ち、
 常に真理に心が定まっている状態をいう。継続して行なう精進も、常に落ち着いた
 心で行なうことが大事であると説かれる。

 智慧(ちえ)

 智慧とは、真理を見極め、真理によって判断、処理できる能力をいい、仏教徒が
 目指す最終到達点であり、仏の智慧ということである。仏教でいう智慧とは、
 単なる知恵(知識)ではなく、真理を認識しているということが大前提であるとされる。

 そして、この仏の智慧は、布施から禅定までの五つの徳目を修行することによって
 完成されるものであると教えられている。


以上の「布施」「持戒」「忍辱」「精進」「禅定」「智慧」が、六波羅蜜であり、人を救い
世を救えるような理想的な人間になるためには、どれも欠くことのできない条件で
ある。特に具体的なのは布施であり、できることから少しずつ実践し、仏の境地へ
一歩でも近づいていこうと、仏教では教えている。

前へ戻る