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最初の説法

 悟りをひらいたゴータマは、仏陀(ブッダ:目覚めた人の意)となった。以後、ゴータマではなく、
 釈尊と呼ぶことにする。ちなみに釈尊とは釈迦牟尼世尊の略で、釈迦牟尼世尊とは「釈迦族
 から出た、この上もなき尊い人」という意味のサンスクリット語を音写したものである。

 釈尊は、悟りをひらいてから7日間は瞑想を続け、その悟りを深く味わっていたが、この深遠で
 最高の悟りを、どのようにして人に説いたらよいか考えた。あまりに深遠なこの悟りを説くこと
 によって、逆に人びとに迷いや不信感を抱かせ、最高の真理に背かせてしまうことになって
 しまうのではないかとも考えた。

 しかし釈尊は、この悟りをなんとしても多くの人びとに伝え、自分と同様の悟りに至らせることに
 よって人びとを幸せにしたいという使命感をもっていたので、どんなに時間がかかろうとも、
 順々に人びとに説き聞かせようと決心し、布教の旅に出発した。

 始めに説いた相手は、釈尊が出家し、最初の頃苦行を共にした5人の比丘(ビク:男性の出家
 修行者)の仲間達だった。5人の比丘は、釈尊に再会したとき、苦行を途中でなげだした堕落者だ
 と思ったのだが、釈尊を目の前にして仰いだとき、その光り輝くような尊いお姿に打たれて、
 だれからともなく立ち上がって礼拝して迎え、上座に案内しすわって頂いた。

 そして釈尊は、5人の比丘に「法を説いてあげよう。聞きなさい。」といい、はじめはいぶかっていた
 比丘たちも、釈尊の教えを聞いてみようという気持になり、いよいよ釈尊の説法が始まったので
 あった。

 説法の第一声は、次のようだったと伝えられている。

 「比丘たちよ。この世に近づいてはならぬ二つの極端がある。如来は、この二つの極端を捨てて、
 中道を悟ったのである。」

 この詳細は別ページで解説したい。ここで、如来というのは「真如(しんにょ:真理の世界)から
 来た人」という意味で、仏陀のことをさす。つまり、釈尊は、仏陀となったのは歴史上自分一人
 だけであると考えてはおらず、過去にも仏陀となった人は何人もおり、これから未来の世にも
 何人も出現するであろうと示唆されているのである。

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